~区切り~と~新たな歩み~
足もみ士の「たけ」です。
鈴虫の鳴き声・コーラスが涼しげに聞こえてくるようになりました。
いよいよ秋ですね。
僕にとって先週末の23日・24日は、ひとつの「区切り」となりました。
・父の四十九日法要
・「健康管理士」の資格試験
父とは、僕が1才になる頃までしか一緒に暮らしていません。
なので、どんな父だったかとか、まったく記憶がないんです。覚えていないだけなのかな。
思い出も当然なくて。
僕は、母と、ばあちゃんとの3人暮らしでした。母からは、詳しく教えてもらったことがなくて、どんな人だったのかは、まったく知りませんでした。
我が家に父がいなかった分、僕がしっかりするべきところなんでしょうが、やんちゃしてグレて…なんてあれこれ話は、今回はおいときますね。
なので、父が「背中で語る姿」とか、一度も見たことがなかったんです。
僕も今でこそ、2人の子を授かっている父親ですが、どうも今一つ、父親像というものが分かりませんでした
僕が18才の時です。神奈川県の辻堂という所に住んでいた父に、会いに行ったことがありまして、僕が住むところやら、そして工場で働く仕事の紹介までしてもらい、その後は働きながら定時制の高校にまで通うようになったり。
それから、横浜に6年ほど住んだ'土台'を築いてくれました。
そして24才の時に、横浜から郡山に戻ってきたのですが、それ以来、連絡を取っていませんでした。
ぷつっと縁が切れていた状態。
ですが不思議なもので、あるネパール人から、「父さんは君に愛のエネルギーを送っているよ。連絡を取ってみたら」とのアドバイスを。
鮮明に「見える」方っているんですね~!
例え別れたとしても、子どもへの愛情って、消えるものではないんですね。
そして電話をしたんです。僕。
このとき父は、すでに末期のガンでした。
原発(最初に発症の意味)は、食道ガンから肺や大腸、腹膜にまで転移。
都会の病院で、孤独の身でこれだけの病と闘っていたなんて。。
結局、再会してから僕は何にもできませんでしたが、今年の2月からは、辻堂の病院から郡山のホスピス病棟へ転院、そして、余命宣告よりも3か月ほど長く生きてくれたんですが、旅経つ最後の時は僕、入院していて、立ち会うことができなかったんです
もう1週間、僕の退院が早かったら…とか、悔いも残りましたし、何よりショックで、気の抜けた日がしばらく続いていました
「退院できるように、もうちょっとがんばってみるわ」という言葉が最後でした。最後まで希望をもってガンと向き合った姿は尊敬しました
そんな背中を僕に残して天国に旅立った父とは、そのうち会う日もくるでしょう
その時は「お前もなかなかがんばったな。」って言ってもらえるように、しっかりと生きていこうと思っています。

チャンスは活かさないと(笑)。
健康についての社会情勢について、糖尿病、ロコモティブシンドローム、大腸がん、環境汚染、パニック障害、メタボ指導、介護保険、消化(膵臓と胆汁)、肝臓の働きについて、ガンが転移する3つの仕方、血圧に関わる事etc…
かなり広い範囲についての問題が出て、試験が終わっても頭がオーバーヒートでクラクラ、、
学生時代ですら勉強から逃げ回ってた僕が、柄にもなく机にかじりついてましたから(苦笑)。
「何のために?」
・僕みたいに大病で大変な思いをする人が一人でも少なくなってほしい、
・病気のことについて、数値も交えながら、より具体的で専門性の高い会話や説明をしたい、
・不健康を極めた僕が、健康を取り戻し立ち直った体験も伝える「健康に生きる」講師の活動をしていくステップにしたいから。
さー、結果は2週間後。
合格後は、特に「難病」と「ガン」について、熱く取り組みます。
その前に試験、受かっててくれっ!