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ジョージアから学ぶ~つながっている~




世界は誰かの仕事でできている~

最近、よく流れている缶コーヒーのCMですが
日本はあらゆる環境が成熟してきて整っていて、良い国で深いなあ、、なんて感心しつつもこのショートムービー、好きで


そこで「冨田先生が本で書いていた【いのち】の話しにつながる!」と連想したんですね。
とても大事な内容で、これはシェアしたいと思ったので転記します。
※食養学初級編 著者:冨田哲秀氏

お時間のある方だけ読んでいただけたら嬉しいです。


非常に興味深いテレビ番組を見ました。溜池に生息する天然記念物のベニタナゴの数が激減してきたと言うのです。
番組はその理由を追っていきます。

まず分かった事は、溜池の底がヘドロ化していたということです。
ヘドロは魚や葉っぱなど、様々な生物の堆積物でした。そのヘドロが溜まることによって栄養が過剰になってしまい、藻が発生し酸素不足が起きていました。
これが紅タナゴの生息できる環境を損なっていたのです。
人体でたとえれば、糖尿病や高脂血症、痛風、がんなどの慢性疾患状態ですね。正常細胞が窒息したような状態です。

ではなぜヘドロ化したからです。
溜池には栓があって、それを開けると溜池の水がヘドロとともに抜けるのです。
水は田んぼを満たし、ヘドロは田んぼの栄養になります。
いわば堆肥なのでした。
昔の日本人のなんと賢いこと!溜池は新しい雨水できれいになり、紅タナゴも生きていけます。

ではなぜヘドロが消えず、ベニタナゴが激減したのでしょう。
それは何年も栓が抜かれなくなったからです。
それがタナゴの激減した原因です。
でも本当の原因は、なぜ栓が抜かれなくなったかにあります。
それは溜池の周辺から田んぼがなくなって、溜池の水が必要なくなってしまったからです。
紅タナゴ激減の理由は、田んぼがなくなったことにあるのです。
つまり、溜池の生物にとっての健康な環境は、田んぼが作っていたということです。
番組の追求はここまでで終わっていますが、さらに考えてみましょう。
田んぼはどうしてなくなったのでしょうか。
その「なぜ!」こそが本当の原因を見つける言葉なのです。
田んぼは減反政策で米を作らなくなったのです。
減反政策は、工業製品輸出と引き換えに穀物輸入を促進した結果です。
輸入穀物が増えると、日本人の意識は米からパンへと変化します。
それがいっそう米を少なくし、小麦を増やす方向へ拍車をかけます。
パンが大好きなあなたも、紅タナゴ激減にひと役買っているのです。
人の健康問題もこのように広い視野で考えないと、本当の理由はわからないのです。
ところで、生物が生息できなくなる環境は、最終的にそこに住む人間も生きられない状態をつくりだします。
工業製品の大量生産は、石油エネルギーの大消費を伴い空気を汚染し、同時に大量の水を浪費します。
パソコンを1台作るのにおよそ1トンの水を使います。
その水は地下水で賄われるのですが、地下水の水源は実は水田の底(暗渠・あんきょ)に蓄えられた水なのです。
なんという矛盾!
工業国は大農業国でないと維持できないのです。
紅タナゴを生かす程度の工業国であることが日本に相応しいということなのです。
水田を押しのけるような工業化は、結局それ自身も成立し得ないということなのですね。


〇いのちは虚実の支え合い

この溜池の話には「いのちの秘密」が隠されていることがわかります。
いのちには「虚実の支えあい」という仕組みがあるのです。
私たちの身体の中にだけ「いのち」が存在するのではありません。
「いのち」には虚実があります。
《実のいのち》と《虚のいのち》がワンセットで生命が成り立つのです。
どちらかがかけたとき、命は終わります。
実のいのちは腸の意欲であり、虚のいのちは身体内部にありません。
紅タナゴの虚のいのちは水田に存在しているのですね。
私たちの虚のいのちも水田に存在しています。
水田が荒れ果てた風景を見て心が痛む理由はそこにあります。
荒れ果てた水田を見て、痛みとともに喪失感を持つ人は敏感な人です。
感性が豊かであるとはそういうことなのです。
共感力があると言う事は、水田にわがいのちを重ねることができるということなのです。
そういう人の「いのち」は自己を超えて環境全体に及んでいます。
アメリカ、インディアンの居留地区に原子力発電所が作られる計画があり、それに頑として反対した青年がいました。
「多額の補償金が入るのに、なぜそんなに反対するのか」というテレビのインタビューに、「俺が立って地平線まで見える、その範囲全てが俺自身なんだ!」と応えたのです。
「大いなるいのち」を生きる人、いのちの虚実がわかってこその感動的な言葉でした。


〇「池の栓を抜く」意味と心身の健康

紅タナゴの生息環境の悪化は川が抜かれないことからはじまりました。
わたしたちの体には60兆匹のベニタナゴが生息しています。
つまり細胞の一つ一つです。
血液や体液、それらを包む皮膚、支える骨格が溜池全体の環境です。
この場合「栓を抜かれていない状況」とは心身の便秘ということです。
エネルギーを動きで発散できない、思いを実現できない…。あらゆる場所に滞りを起こしている状況です。
あなたに住むベニタナゴは酸欠で窒息しそうです。
その窒息状態の悲鳴が慢性疾患なのです。
したがって健康になる道筋の根幹は栓を抜くことなのです。
大きな意味で排泄作用を促す生活習慣と生き方が必要なのですね。
きれいな雨水を貯めておきつつ(これが食事などの入力)、ヘドロ(老廃物)を排泄するのです。
それも心身共に、です。


〇「いのち」はどこにあるでしょう?

この質問に対して、現代人は身体の内部にあるという考えを持っています。
これは現代思想の典型なのです。
実は、私たちのいのちは、身体の外にも偏在しています。
前述の話を思い出してください。
紅タナゴは水田がなくなったことで、いのちが消えたのです。
ということは、紅タナゴのいのちは周辺の水田に偏在していたことになります。
水田を営む農家の人がいなければ水田は消えます。
ということは、農家の人々の身体の中にも紅タナゴのいのちは住んでいることになります。
お米を食べる人がいなければ水田はなくなりますので、お米を食べる人の中にもベニタナゴのいのちは棲んでいます。
お米を食べるためには、それを運ぶ人がいなければ食べることができません。
運送する人の中にも紅タナゴのいのちは存在します。
道路がなければ車も走れないですね。
道路を作った人々、車を作った人々…。
こうして考えると、ある狭い地域に住む紅タナゴのいのちは、全国の全ての人のなかに存在することがわかりますね。
紅タナゴが失われるという事件は、実は遠い場所で起きた事件なのではなく、お米を食べなくなったあなたの身体の内部で起きている事件でもあるのです。
ベニタナゴのいのちの喪失に心が痛む訳はここにあります。
私の内部で1つのいのちが消えたという事件だからです。
このテレビ番組がなぜ制作されたのか、意識されなくともその基本的な動機はここにあることがわかります。
すべてのいのちはつながっているという意味なのです。
すべてのいのちに共感性が発動するのは、すべてのいのちが私たちの身体内部にあるからなのです。
もちろんいのちだけがあるのではありません。
溜池という土の容器、いのちの素である石ころや水、土、空気などとも私たちのいのちはつながっています。
水田に土や水があるように、です。
それがなければいのちが存在できません。
それらのものにも、紅タナゴのいのちはあるのです。
いのちは環境全体に偏在しているのです。
だから、虚実と言う概念でいのちを考えたのです。
紅タナゴの内部にあるいのちを実のいのち、環境に偏在するいのちを虚のいのちとする考え方です。
今、両手を合わせるように打ってください。
拍手をします。いい音がなったでしょうか。
その音こそがいのちなのです。
いのちとはそうした音のような現象であって、実体は無いのです。
虚実一致でいのちという現象が生じるのです。
食は環境という虚のいのちから取り出すものですから重大です。
その食という行為こそが拍手を打つということなのです。
あだやおろそかにしては良い音がならず、失意の人生で終わるでしょう。


〇身土不二の本当の意味

「わたしたちの命は偏在している」という事実を納得していただけたでしょうか。
そうであれば、わたしたちのいのちが途方もなく遠い外国の、異なった風土にも存在するとしたらどうでしょうか。
小麦でできたパンやパスタを食べる、外国の飼料でつくられた肉を食べる、熱帯地方の果物食べる…。
カロリーベースで見た日本の自給率は40%なのですが、これはわたしたちのいのちの60%が見知らぬ外国に転がっているということなのです。
大豆を例に取り上げてみます。
大豆は自給率がわずか4%です。今は3%になっているかもしれません。
穀物と豆を失った民族は絶滅し、どちらか一方を失えば少数民族になると言われています。
となると、紅タナゴの運命と変わらないのです。
私たちは事実上、豆を失っていますが、お金で主としてアメリカから買っています。
輸入がストップしたらどうなるのでしょうか。
大豆はお米に少し不足しているアミノ酸のいくつかを豊富に持っています。
このタンパク質の基であるアミノ酸が不足すると必要なタンパク質がつくられなくなります。
すると酵素も蛋白質ですから、酵素は働きにくくなります。
酵素こそ生命現象を生み出すミクロの物質です。
これが十分につくられなくなり不活性になると免疫が不足します。
そうするとSARSや鳥インフルエンザ、様々な菌やウィルスなどに感染しやすくなります。
バタバタと病気で倒れる人が続出し、結果として自給率40%に見合った人しか存在できなくなるのです。
あるいは平均化して全国みんな病気になるのです。
外国に虚のいのちが偏在してしまうという事はいのちの確かさが扁平に薄くなっているということなのですね。
国内でできたものこそが、国内のいのちの姿をしっかりと厚くするのです。
「厚いいのち」に対して「薄いいのち」もあるのです。
脆弱な基盤に立ついのちは薄くて破れやすいのです。
ついでに言えば国内でできたものでも旬を間違えてはいけません。


〇「いのち」の循環システム

いのちはつながっています。
どのようにつながっているのでしょうか。
循環というシステムでつながっています。
では、どうしてそのシステムが働くのでしょうか?
それはすべてのいのちは「自然の声」に従っているからなのです。
ほら、トイレに行く時に「自然の声が聞こえる」というでしょう。
これが自然界の循環を作り出すのです。
みんな「やむにやまれず」という意識でトイレに行くのです。
前章で溜池と紅タナゴ、水田の一連の関係を述べました。
溜池の栓を抜くのはどうしてなのでしょう。
それは農家の人が干上がった田を見て「やむにやまれず」栓を抜くのです。
溜池のヘドロと水は田に流れ込みます。
すると稲穂は歓喜してそれを吸い込みます。
溜池の排泄物は、ここでは役に立っているプラスなのですね。
溜池にとどまったままでは、溜池の循環としてはマイナスだったのです。
そのせいで紅タナゴのいのちが奪われてしまったのですから。
さて養分十分に吸い取った稲穂は、今度は苦しくなります。
「うんち」をしたくなります。
それが米粒をたわわに実らせることなのです。
稲穂としては「やむにやまれない」行為で、決して人の為とは思っていないのです。
自然の声なのです。その米粒といううんちは人のプラスになります。
こうしたことは腸内でも見られます。
町内には100兆個という常在菌がいるそうですが、彼らも食事をして太ります。
そして「やむにやまれず」うんちをします。
そのうんちが人の役に立つものであれば、それを排泄してくれたものを善玉菌と呼びます。
人も食べることで満ちます。
それが思春期です。自然の声に従って異性が気になりだします。
まだ幼い素朴な心情ですが、人を恋することも自然の声に従うからです。
やむにやまれずであって損得の計算ではないのです。
幕末の草莽の志士たちもそうです。
その多くは立身出世のために奔走したのではありません。
矛盾で苦しむ社会の呼びかけに「やむにやまれず」従っただけなのです。
天命というものです。
うんちをすること、食べること、愛すること。
これは天命なので、やむにやまれずするのです。
これがいのちの実相なのです。
このやむをえない行為こそが循環を起動させているのです。
循環が恣意的にストップするようなことはありません。
そのような脆弱さがあればもともと循環は成り立たないのです。
このように、わたしたちの人生であっても「やむにやまれず」で成り立っているのです。
意図的に「こうしたい、ああしたい」と考えて「目標を設定して」やってみてもうまくいかないことが多いのです。
「こうしたい、ああしたい」が心の底から勝手に湧き出してくるような「やむにやまれず」のものであればうまくいくものです。
学校も企業でも競争になっています。
人には、その本質に競争したいという、やむにやまれない動機が、本当にあるのでしょうか。
大きな会社に行きたい、そこで出世したい、事業を拡大したい、お金をたくさん貯めたい…。
こうした価値観は外から与えられたものであって、あなたの内面から飛び出してくるものではありません。
やむにやまれず考え行動することは、必然的に他者や自然界と仲良くできることになり循環する生き方に結びつくのです。
このことについては後ほど書きたいと思います。


〇「いのち」はつながっている

「いのち」は「やむにやまれず」を土台としてつながっています。
「やむにやまれず」という現象は、人では(お腹が減った、うんちをしたい…)という衝動として表現されます。
衝動とは意思を超えた自然界が指示する声なのです。
この衝動こそが「いのち」の声であり、「いのち」自身をたくましく守るものなのです。
紅タナゴの話から分かることは、いのちはそれ自身では成り立たないものだということでした。
いのちは他のいのちと支えあっているわけです。
ここで冒頭の悪魔と村人のお話を思い出してください。
たった1人だけが「いのち」と書いたので残されたわけですが、これで良かったのでしょうか。
残った1人のその「いのち」はなにによって支えられるのでしょうか…。
正解は「いのち」と書くのではなく「すべてのいのち」と書かねばならなかったのです。
この村人は「いのち」がつながっているということを知らなかったのです。

その人だけが生き残っても「いのち」は保てないのです。
もっとも、悪魔が本当に思慮深ければ、つまり「いのち」はつながっていて一つだということを知っていたなら、「いのち」と書いたメモを見ただけでも、村人全員を残したことでしょう。
「いのち」はつながっている。これはキーワードとして覚えておいてください。


〇第二の質問「心」はなんのためにあるのか

「こころ」はいのちを本体にして、その「いのち」の隙間から出る微からな風のようなものです。
心はいのちから生まれるので、いのちと同じ性質を持っています。
というよりも、「いのち」を生かすために心は存在するのです。
「いのち」は他者のいのちとのつながりで生かされている、と言う本質がありましたね。
「心」は他者とより強くつながるために働くのです。
「心」はなんのためにあるか答えが出ました。
「心は人とつながるためにある」のです。
そのために「心」には他者と繋がるための機能が豊富にあります。
例えば共感性です。
他者の感覚を共有することでつながることができるからです。
それを出発点にして、連帯して、様々な行動をとることができるようになります。
「優しさ」というのもつながるための機能です。
育てられた経験が「優しさ」をすべての人に備わせているのです。
「優しくない人」もいると思われるでしょうが、必ず備わっているのです。
機能しているかどうかだけなのです。
心が他者と繋がるほど個々の生命力は強化され、孤立すると弱められます。


最後まで読んでくださってありがとうございます
いかがだったでしょうか?

こういう話こそ、子どもたちに伝えていくべきでは…この事こそが本当の意味での食育活動と言えるような気がしてます。

「からだは自然の一部」ということばは、良く聞かれるようになりましたね。
ですが僕自身は、このベニタナゴのエピソードを知ってから「そうか!と腑に落ちたんです
20年も求めてきた【健康】について、土いじり(微生物とのつながり)をやることがなくなった生活も含め、わが体内ののベニタナゴが死にかけていたんだなあと。。

大阪・BL研究所所長・冨田先生
【2017.2月に大阪の事務所にて】

エゴギョウや7号食・重心調整トレーナー(姿美人)・あしうら宇宙リングの開発者でBL研究所・大阪市の冨田先生、別名(変才先生)とも呼ばれていますが、哲学的な視点から本質を捉える「まなざし」をお持ちなのです

僕自身は4~5年ほど前から講座などで学ばせていただいていますが、今年の5月辺りに《講座》で郡山へ足を運んでいただけたら。と密かに考えていまして
その際はぜひ!ご参加してくださいね。

期待は必ずや超えることを約束しますので。
 

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 足もみ士「たけ」プロフィール

さあ、足どりが軽くなるぞ!

Author:さあ、足どりが軽くなるぞ!
福島県郡山市足つぼマッサージたけ_腸トラブルの専門家_手書きで書きました  
ニックネーム:足もみで人生が開けた男 大竹茂「たけ」
性別:男性
誕生日:7月12日
血液型:A型
お住まいの地域:福島県郡山市

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カラダからのヒントは必ず出してくれていますよ。

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